文様を織り出す工夫、紋織物

 「Time J-28」 阿久津光子

織の技術とともに染色技術が発達することでさまざまな加飾の技法が発達してきたが、寒冷のヨーロッパでは麻と羊を得られたことで緯糸で経糸を覆い尽くすタペストリー技法が発達し、経糸と緯糸の操作による絵柄をつくる方法には、中国の絹の発展と懐古や製糸技術の発展が不可欠であった。

 

経糸と緯糸の操作による織表現として、おそらく最初は手でそのつど経糸を救いながら織っていたであろうが、効率が悪く間違えやすいだろうと安易に想像できる。インドネシアの紋織物(経浮織)には、文様部分の経糸を細い棒であらかじめすくって準備しておき、織り始めたらその細棒に合わせて緯糸を通し、その棒を抜いて次の柄部分に緯糸を通すという方法があるが、棒の設置は一度きりで柄の繰り返しに限界がある。能率を上げるための改良方法として、細棒ですくった柄部分の経糸を糸綜絖に置き換えるという工夫例があり、この紋綜絖で経糸を順に引き上げ、繰り返し柄を織り出すことが可能となる。

 

綜絖とは経糸を引き上げる装置のことであるが、さらに紋綜絖の数が増えると、織り手はとは別の紋綜絖を操作する専門の人が必要、ということになる。前田亮氏はその著者『図説 手織機の研究』(京都書院、1986年)で、「生産技術を改良する場合に、たくさんの人手を掛けていっそう複雑な織物を織れるようにする方法と、1人で

織れるように改良する方法が考えられる。どちらの方向にも改良された織機が残っている。紋織物は複雑で華麗なことに値打ちがあるから、古代にはまず人手を掛ける方へ進んだと推定。これを二人に集約したのが空引機である」と、その調査研究より示している。

 

「空引機」とは中国で精巧な柄の絹織物を織るために用いられた花機(または提花機)

と呼ばれる織機のことで、文様を出すために必要な経糸を引き上げる操作を織機の上部に人(空引工)が上がり、織り手と呼吸を合わせ製織していた。シルクロードを経て西欧へと伝わり、フランスの空引機はさらに時を経て、19世紀初頭のジャカード織機へと受け継がれていくことになる。

 

中国より日本に伝わった7~8世紀の染織品は、奈良の法隆寺や正倉院に収蔵される貴重な遺品により高度な技術を有していたことが知られている。経糸で地と紋様を織り出した経錦は三重経が一般的だが、四重経、六重経の複雑な錦織もある。時代的に遅い正倉院裂には錦織が多く、色の緯糸で自由に大きな文様を織り出せるようになったのは、空引機の経糸を引き上げるため装置が簡略化されたことによる。色数、模様に制限がある錦織は、緯錦の発展とともに衰退していったことがわかる。奈良時代の初め頃から錦の製織が推奨され、やがて平安時代以降になると倭錦(やまとにしき)という日本の紋織物へと展開することになる。

 

シルクロードは紀元前2世紀、漢の武帝治世の頃、西は古代ローマ時代の頃に開かれたといわれる。陸路のシルクロードに沿って絹織物の重要な発見がなされているが、中国では南北朝時代(420~589年)には経錦から緯錦への織技法が発展し、より複雑な意匠、より広い幅の布を織ることができるように改良なされた。唐時代(618~906年)には、複雑な文様を織り出す重要な織組織「繻子織」を発達させた。

 

出典:阿久津光子