「Seeking a Lang of Rest #26」阿久津光子
中国から日本へ渡った空引機はどのような経緯をたどったのだろうか。奈良時代にはすでに唐から渡していた空引機は、遷都後、京都西陣を中心に用いられ錦が織られていた。絹織物は技術水準からいっても西陣がその中心であり、一般に日本各地の織物生産のほとんどは在来の地機が使われていた。 生産性の高い高機(絹機)や空引機が各地へ導入されたのは、ジャカード織機が明治の初めに輸入されるまで、有識織物や能装束など高い技術が必要な紋織物を織るために使われていた。
ジャカード織機が初めて日本に導入されたのは1873年(明治6年)のことである。明治維新後、東京へ遷都されたことにより沈滞する西陣の復興をかけて、京都府は1873年、西陣の織り工の佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の3名をジャガード織機や織技術の習得と、機械を持ち帰ることを目的としてフランス・リオンに派遣した。佐倉・井上は1873年後帰国、購入した織機や道具を京都御所博覧会に出品、さらに1874年に開設された官営の織物研究所に、持ち帰ったジャカード、飛杼、種々の機械を備え付け、新織技の伝習を行った。 吉田はさらに一年間の研修を続け帰国の途についたが、下田沖で遭難、持ち帰った機材とともに海に没した。
また一方、1873年、佐野常民がウィーン万国博覧会に参加したときにオーストリア式のジャカード織機を購入、同行の伊達弥助は織物伝習生として残り、その用方を学んで帰国した。これらの輸入機械は1875年試験所で紹介された後、地方へ貸し出しされたが、使用方法を知る人もなかったために普及する事はなかった。
1877年に京都よりリヨンに派遣された近藤徳太郎は、5年間の研究を終えて1882年に帰国し模造品の製織と新技法を指導、1885年の東京五品共進会において、ジャカードを用いた出品作がメカニック織として賞賛された。 また1888年の竣工の皇居の装飾用織物をつくるに際し、ジャガード織の実際的使用者が増加するに至った。
日本における初のジャカード織機製造は、輸入されたジャガード織機を手本に、1877年に西陣の織大工、荒木小平が木製の織機を2台の模造を完成させたが、使用するものはほとんどなかった。その後、1880年に佐々木清七が荒木小平の模索したジャカード織機を購入して試し、その販売に成功したことから西陣の織業者たちにも使用されるようになった。
このように明治初期に導入されたジャカード織機の研究と、リヨンの織物を手本とした織技法を習得の情熱、また日本製のジャカード織機製作など、特にこの時期の約15年間は、日本におけるジャカード普及のための大きな歩みでもあった。
地方の機業地におけるジャカード織機の使用を、西陣からジャカード織機を購入するか、あるいは桐生を中継として改良された機械を購入して伝播していった。 ジャカードの地方への普及経路を見ると、1873年にフランス及びオーストリアより西陣に導入されたジャカード織機が、1877年から90年に桐生へ、1877年足利、1884年福井、1890年に博多へ移植された。 また桐生を拠点に1884年伊勢崎へ、1886〜90年米沢、1895年には八王子と十日町に移植されている。さらに1888年にはアメリカからも桐生へジャカード織機が導入されている。