· 

紋織物の伝播

 

「Time J-21」  阿久津光子

 

経糸と緯糸の操作による絵柄をつくる方法には、中国の絹の発展と養蚕や製糸技術の発展が不可欠であった。中国の養蚕の始まりについてはさまざまな伝説があるが、浙工省興山様遺跡より発掘された最古の絹の糸や布の断片などから、養蚕技術は紀元前3000年に遡るとされている。

 

文様を織り出す工夫について「文様を織り出す工夫、紋織物」に記したが、さらに南北朝時代(420~589年)には経錦から緯錦への織技法は発展し、より複雑な意匠、より広い幅の布を織ることができるように改良なされた。唐時代(618~906年)には、複雑な文様を織り出す重要な紋組織「繻子織」を発達させたことで、繊細で美しい紋織物が生み出されていく。

 

意匠としては西洋の影響がみられ、異国風のものや、パルティアやササン朝ペルシャで流行した形、意匠、象徴が唐時代の好みに変化している。連珠文として有名な「四騎狩猟円文錦」(四天王文錦 唐・7~8世紀/法隆寺)などが日本へも伝来している。

 

一方シルクロードを経てペルシャやビザンチンで作られた絹織物は、イスラムの発展によってさらに西のシチリア、イタリア、スペインへと広まり、宗教用の布やビロード織など豪華な織物が生産されるまでに至り、その後フランスへと伝わった。

 

西アジアの技術文化の中心地だったシリアのダマスカスで織られた「ダマスク織」は、空引機「ダマスク機」を用いた紋織物で、これは本来の中国の錦の織り方であり、多綜絖のリボン織機など中国の織機と同じであるという。中世に中東からヨーロッパへ空引機が導入されたが、近世になってやっとイタリアで空引機による生産が始まり、フランス・リヨンでの使用が盛んになるのは18世紀である。

 

13世紀以降フランスではパリやルーアンで飾り紐やリボンなどの織物や、アヴィニヨンでビロートが作られていたが、絹織物の中心はイタリアであった。フランスはイタリアとスペインの高価な絹織物を輸入していたが、フランソワ1世(在位1515~47)が絹の自国生産を拡大しようとして、1536年、2人のイタリア人商人エティエンヌ・チュルケとポール・ナリッツに、織機を持ち込みリヨンで絹織物生産を始めるよう特権と保護を与えた。王侯貴族の衣装、宮殿を装飾する壁布、室内装飾用絹織物など、各時代の装飾様式による華麗な絹織物の数々がリヨンで作られた。ヴェルサイユ宮殿、コンピエーニュ宮殿など、国内ばかりではなくロシアやスペインなど外国の宮殿の室内装飾布を調達するなど、リヨンの絹織物は18〜19世紀に栄華を極めた。

 

18世紀末のフランス革命後、町は破壊され、ブルボン王家など王侯貴族の顧客も失い危機に瀕したリヨンの経済復興に力を注いだのはナポレオン1世であった。さらにナポレオンは、1801年ジェセフ・マリー・ジャカールによって発明されたジャカード織機をパリ産業博覧会でみて直ちにその可能性を認め、特許をリヨン市へ与えている。

 

美しい絹織物とともに織機や技術が6世紀に日本へも伝来したが、経糸と緯糸の操作による紋織物を織ための織機の発展をみていくと、そのルーツは中国の空引機にあり、中国からシルクロードを西へと向かいヨーロッパに伝わった養蚕や製織技術、織機の変遷などを経て、ジャカード機へと繋がっていく。